あたりまえのねがい

今回はようやく総士と翔子ですよ。
１００題の説明のところで銘打ってから長かったな……。
気が咎めるので、いまだにサーチのCP登録は総蔵だけですが。

-------


夏休みが終わってしまえば、総士たちを長く拘束しておくことはもうできない。
これからは主に週末だけ、アルヴィスに顔を出せばいいことになっている。

突然回帰してきた日常、平和な日々。
騙し絵は知らなければ、その一面しか見えない。
人の顔が向かい合っているものが盃になり、若い女性が老婆に変化する。
知識とは得てしてそういうものだが、一度知ってしまえば知らなかった頃にはどうやっても戻れないのだ。
見えるはずだと知っているから、若い女の中に老女の面影を探してしまう。
そして結果として、一番見たくないものを見てしまうことになるのだろう。

「羽佐間、いいか？」
「どうぞ。……いつものことだから、そんなに気にすることないのに」

総士の律儀さに、翔子がくすくすと笑い声を上げる。
ベッドの上に上半身だけ起こして、彼女は総士を自室に招き入れた。
総士が羽佐間翔子と最後に会ったのは、期末テスト前のまだ授業があった頃。
かれこれ一月半近くも前の話だ。
燦々と太陽が降り注ぐ季節、地下に籠もりっぱなしだった総士と、病弱で外に出られなかった翔子は共に日焼け一つせず、真っ白なままだった。
だがそれに加えて、彼女はいくらか痩せたらしい。

翔子は生まれつき肝臓が弱いため、肉類はもとより、それ以外の食べ物でさえも受け付けないときがある。
食べられるものが始めから極端に少ない上に、夏場の暑さにやられて食が落ちてしまったのだろう。
ノースリーブの部屋着から覗く、骨の筋が際立つ腕に、総士は眉を顰めた。
昔それを指摘したら、悲しそうに笑って「仕方ないの」と言われたことがある。
あのときほど自分が気の利いた言葉を口にできないことを、恥ずかしいと思ったことはなかった。
だからもう、何も言わない。

「これは遠見から預かってきた。あとは学校でもらった配布物と、こっちは近藤先生から預かってきた数学の課題だ」
「うん、ありがとう。……授業はどれくらい進んだ？」
「まだほとんどが夏休みの課題の答え合わせだ」
「そう……、十月くらいには体調もよくなってると思うんだけど……」

母親が教師ではあるが、中学校は基本的に専任科目しか教えない仕組みになっている。
羽佐間容子は自分が担当している理科ならともかく、それ以外の科目ともなるとさほど詳しいわけではない。
そのため総士が翔子の、家庭教師を引き受けることになってしまったわけだ。
毎年見ていれば、翔子の身体のサイクルもわかってくる。
気候が落ち着いている春と秋は、翔子の体調も比較的よかった。

「学校、行きたいなぁ……」
「行けるさ、きっと」

これは単なる慰めではなく、事実を元にした推論だ。
翔子はずるずると身体を動かし、足先だけを床の上に下ろした。
彼女が移りやすいように、椅子をすぐ側まで引き寄せてやる。

「今日は近藤先生の課題を片付けておくか？」
「……そうしようかな」

机に向かいプリントを片付け始める彼女の側に腰を下ろし、棚から勝手に本を物色する。
できる限りは自分でやる、むやみやら他に手を出さないというのが、自分たちの間の決め事だった。
彼女から声をかけるまでは、総士は何も教えない。

彼女に背を向けて、手にとった本を開く。
若い女と老女の騙し絵。
「学校に行きたくないの」と言って泣いた少女を思い出した。